大城山光善寺

光善寺は、豊前国院内の副城(そいじょう)の城主副但馬守(そいたじまのかみ)の菩提寺として、弘治三年(1557)年に但馬守の後を継いだ息子の副越中守(えっちゅうのかみ)によって開山した。

寺院情報

寺名(ふりがな) 大城山 光善寺(だいじょうざん こうぜんじ)
住職(ふりがな) 副 史彦(そい ふみひこ)
住所 〒872-0318 大分県宇佐市院内町副1512
アクセス情報 国道387号を宇佐より道の駅「いんない」の手前を左折、左手すぐ
電話番号 0978-42-5460
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納骨堂
墓地
合同墓
駐車場 5台分
バリアフリー対応
主な行事・活動 春の彼岸法要(3月末)
秋の彼岸法要(9月末)
報恩講法要(11月末)
寺院紹介 光善寺は、豊前国院内の副城(そいじょう)の城主副但馬守(そいたじまのかみ)の菩提寺として、弘治三年(1557)年に但馬守の後を継いだ息子の副越中守(えっちゅうのかみ)によって開山、当時は禅宗で寺の名は興禅寺(こうぜんじ)であった。

副但馬守は、大友義鑑(よしあき)氏の求めで但馬国出石(兵庫県豊岡市)より院内に来て城を構えた。大友氏に臣従し一万八千石を領した。副但馬守は弘治二(1556)年大友家内部の反乱軍と戦い命を落とした。

後を継いだ副越中守は副但馬守宗澄(そいたじまのかみむねずみ)と名を改め、民意に沿った政治を行い民からも慕われていた。一方隣村香下の領主妙見岳城主田原紹忍(たわらしょうにん)(大友宗麟の義理の兄で大友氏の重臣)は重税を課すなどで、隣村の領民は悪政に苦しみ副領への逃亡が後を絶たなかった。そこで紹忍は自領の民が副領に逃亡するのは、副氏が手引きしていると宗麟に訴えた。いろいろな騒動攻防があり副氏は争いを避けようと大友屋形に使者を送って一切を報告したが聞いてもらえなかった。大友宗麟は天正九(1581)年大軍をもって副氏を攻めた。副氏方は百姓まで戦ったが、副城は攻略された。副但馬守宗澄は前もって一族を後に中津城主となる黒田義高(如水)の元へ退去させ、自分は城に残り火を放ち、いさぎよく切腹して果てた。

江戸時代に至り、興禅寺は、戦いでなくなった多くの人を悼み、浄土真宗本願寺派に改宗し、百姓衆も門徒として寺の名も光善寺とした。現住職は二十四世となる。
(引用資料:東院内地区女性スクール*ここまで探れた副城址*等)
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